<インタビュー>
秩父音頭に夢中だった子ども時代

トラック島は「虚無の島」
俳人・金子兜太さん

「お盆」と聞いて真っ先に浮かぶのが郷里秩父の盆踊りです。皆野の円明寺(真言宗智山派)では毎年やぐらを建て、お盆の期間は毎晩「秩父音頭」を踊っていました。老若問わず男女が大勢集まってきてね。それは賑やかでした。まさに無礼講でした。踊り終えた明け方、桑畑に吹く風の涼しい感触を今も覚えています。この解放感が子ども心になんとも良かった。あの田舎の匂いや味わいというのは忘れられませんね。

 昭和5年に明治神宮遷座10周年祭がありました。各県から民謡が奉納されるということで埼玉県から「秩父豊年踊り」が選ばれた。ところがこれが非常に猥雑だった(笑)。だからちゃんとした「秩父音頭」に作り替えようということになり、お役が回ってきた一人が父でした。歌詞は村で募集したものです。今では「秩父音頭まつり」といって、町をあげてのお祭になっています。

 父は町医者でしたが、畑もありました。それを世話する吉岡儀作という農家の人がいました。この男の声が素晴らしい。「儀作の声なら明治神宮で使い道になる」と父が発見した。ところがもの凄い酒飲みなうえ、飲まないと良い声がでない。なので畑仕事が終わるとまずは酒を飲ませて、それから、募集した歌詞に儀作が節をつけて唄う。「それがいい」とか「そこは直せ」と毎晩二人でやっているのを聞いていました。民謡は七五調、それがいつの間にか私に染みついていったと思います。

 ◇

 大学に入学した昭和16年に太平洋戦争が始まりました。18年に大学を繰り上げ卒業して日本銀行に入ったものの三日間居ただけで海軍に。その年の暮、かの学徒動員があったわけですが、その人たちとは別に翌年3月、主計中尉として中部太平洋のトラック島(現チューク・ラグーン)に行きました。配属は第四海軍施設部。一応は要塞構築部隊ということでしたが、兵隊は少しでほとんどが徴用・募集工員(軍属)ばかり。裸一貫で生きてきた人たちで、非常に明るく自由なんです。24歳と若かった私は彼らと一緒にいることが多かった。そんな彼らが戦死していくんです。

 米は焼かれてしまい、沖縄の人の持ってきた甘藷で飢えをしのいでいたのですが、それも害虫にやられて不作。敗戦10カ月前から飢餓が深刻になりました。餓死というのは、一人の人間がどんどん痩せていき、最後は眠るにように亡くなる。みな仏さまのような顔をしていました。その頃から私はトラック島を「虚無の島」と呼んでいました。

 武器を補うためにトラック製の手榴弾が作られたのですが、実験のとき暴発し、中年の工員が即死したことがあった。不思議なことに、そのそばにいた私は無傷だった。グラマン戦闘機はいつも頭上にいて、機銃掃射で殺される人もけっこういた。しかし私は無傷。

 銃爆撃でも死なず、餓死もしない自分が不思議だったのですが、ある夜、秩父の山並が現われ、そこを光が流れてゆく夢を見て、眼が覚めて、郷里の椋神社(村社)の御神体だと気付いたのです。

 そして、出掛けるとき、母親が千人針の腹巻に縫い込んでくれていた椋神社の猿田彦の守り札に思い当たったのです。「おれは守られている」と思ったのです。「虚無の島」を生き抜いてやろうとも。

《水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る》

 戦争が終わりトラック島から帰る時にできた句です。これからはただ生きるのではなく、死んでいった人たちのために「報いる」生き方をしよう、と。その後の人生が決定づけられました。

  ◆

 女房(皆子さん、平成18年他界)に「あなたは土の上で暮らさないとダメになる」と言われ、48歳で秩父から関東平野に出たところ、熊谷に引っ越しました。郷里の土を踏むことで、「産土」としての秩父を再発見しました。

《おおかみに蛍が一つ付いていた》

 俳句を作る時に手掛かりにするのが生きもので、特に親しみがあるのが狼と鮫です。秩父には昔、狼がたくさんいた。秩父の象徴「両神山」には殊にたくさんいたと伝えられ、秩父神社の守り神は狼です。秩父の土が狼を生み育てたんですね。そんなことを思っていたら、秩父の土と狼が重なりました。

《梅咲いて庭中に青鮫が来ている》

 冬も寒のうちから咲く、庭の寒紅梅の花が咲きほころび、それを包む大気が海に感じられて青鮫が見えてきました。この句はニューヨークの俳句協会の賞をもらいましたが、選考者のアメリカ人は「金子はトラック島にいた。そこでみた青鮫ではないか」と評したそうです。なるほど、と思いましたね。あの頃、日本の船がたくさん沈められ、その死骸を狙って青鮫が寄ってきていたんです。いよいよ春が来ていのちがみなぎる時期に、私の中に出てきたのがトラック島の青鮫だったのです。

 15年ほど前から「立禅」といって、毎朝神棚の前で亡くなった人の名前を暗唱しています。父母や女房、俳句仲間がどんどん亡くなっていき、その頃から戦争で悲惨な死に方をした人たちのことも思い出すようになった。
名前を呼ぶのは全部で120人ほどですが、最初に出てくるのが円明寺住職だった倉持光憲和尚。自分の一歳上で、私の顔をみるたびに「兜太、兜太」と呼んでいた。なぜ光憲和尚なのか。自分で決めたのに不思議に思っていましたが、やはり私の中にあの円明寺の庭があって、子どもの頃の盆踊りということが非常に大きいんだなと思うわけです。次に俳句の師匠の加藤楸邨先生、日銀時代の恩人である鎌田正美大先輩、私を俳句の世界に導いた堀徹という若い国文学者。この4人の名前はすぐ出てきました。

 家族に看取られて亡くなるような自然死の場合、いのちは他界し次の世界で生きている。でも戦場で死んだ人は殺された人。私は「殺戮死」と呼んでいるのですが、救われない、暗い所に行ってしまったという思いがずっと続いていました。せめて名前を呼び、追憶したい、明るいところに呼び戻したい。立禅を始めたきっかけの一つのように思います。

 トラック島では毎日が生きるか死ぬか。それでいて、自分は椋神社の御神体に守られていて死なないと考えていた。今思えばありがたいことです。もちろんお盆なんて考えもしない。やはり平和な時代がいいですね。死んだ人を悼むという、静かな心の動きが得られる。歳と共に昔のことや仲間たちのことが思い出されて、立禅もお盆の時期になると自然と力が入ります。
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かねこ・とうた/大正8年(1919)埼玉県生まれ。俳人、現代俳句協会名誉会長。「朝日俳壇」「東京新聞 平和の俳句」選者。旧制水戸高等学校在学中に句作を始める。43年、東京帝国大学経済学部卒業。同年、日本銀行に入行。44年より終戦まで、海軍主計中尉、後、大尉として、トラック島に赴任、46年復員し、日本銀行に復職する。55年、第1句集『少年』を刊行し、翌年、現代俳句協会賞を受賞。62年に俳誌『海程』を創刊、主宰し、新しい俳句の流れの原動力を作る。88年、紫綬褒章を受賞。2005年、日本芸術院会員に。『荒凡夫一茶』(白水社)、『語る兜太』(岩波書店)、『他界』(講談社)など著書多数。

(仏教タイムス2015年「お盆号」掲載)

※金子兜太さんは2018年2月20日にご逝去されました。お悔やみ申し上げます。

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<被災地レポ―ト>
熊本地震から2年 復興は今―

本願寺派の21カ寺が本堂全壊
解体めざすが道険しい寺も

 熊本県内に465カ寺あり寺院数が最も多い浄土真宗本願寺派で、全壊した寺院の約8割が再建へ向け前進しているとのアンケート結果が出た。このほど本堂の新築を果たした寺院もある。復興への動きが本格化する中で、思うように進まず疲弊する寺院との格差は広がっている。熊本地震の発生から1年半余りが経ち、それぞれの寺院の現状を取材した。

8割が再建を計画

 本願寺派熊本教区教務所(中央区)は熊本地震の発生から1年半を迎え、被災した寺院240カ寺に初のアンケート調査を行った。その結果、本堂が全壊の認定を受けた21カ寺のうち約8割が、再建計画が進んでいると回答した。

本願寺派で最初の再建を果たした浄専寺本堂。屋上に据えた鐘楼が見える 建設に着工した5カ寺のうちすでに1カ寺が完成。総代会で話し合うなどして計画中としたのが11カ寺で、未定と答えた寺院は5カ寺あった。晨(はやし)利信所長は、「計画が定まっていない寺があり復興への道のりはまだ長いが、予想よりも早く進み驚いている」と想像を上回る再建のペースを前向きに受け取めた。

 同教務所ではこれまでに、教団の見舞金と教区内で募った寄付金の計3億9156万1759円の支援を実施。昨年12月からは月1回、4カ所の仮設住宅でお茶会「ビハーラサロン」も開き、教区内の寺院に協力を求めて傾聴活動を行っている。1年間で職員も含め210人が活動し、被災者406人が参加した。

 同派で最初の再建となったのは浄専寺(南区)。3月に着工し、11月末に鉄筋コンクリート2階建て約300平方メートルの本堂が完成した。見晴らしのいい屋上に鐘楼が据えられ、空高く鐘の音が響く。鬼木顕正住職(55)は「本当に恵まれている」と話す。

 全壊した本堂は200年前に建てられた。解体中、天井裏に通っていた直径約1メートル、長さ約13メートルの梁を見たとき、「先人の苦労が胸に迫った」。

 総工費は約1億2500万円。およそ半額は自己資金で、積み立ててきた布施を充てた。東日本大震災の後、門徒の勧めで加入した地震保険が役立ち、3割近い資金となった。「周りの状況を考えると申し訳ない」と門徒に寄付の依頼をしなかったが、永代経懇志などの名目で多くの門徒が協力してくれた。

 先代の父が兼職していた高校の教え子の工務店が、新しい本堂を建てた。落慶式はまだだが、内輪の竣工式で「恩返しができた」と頬を濡らし、3年前に亡くなった先代に報告していたという。

 前の本堂より天井が低いため、お内仏を本尊に迎え、元の本尊は現在、庫裏に安置する。長男の龍慶さん(23)は「荘厳を整えるのが楽しそう」と父の背中を見つめる。「住職が暗い顔をしていたらいけない。明るく笑っていなっせ」。門徒で熊本高校の先輩の言葉を胸に進んできた。

本堂の解体進む

 真宗大谷派教永寺(宇城市)は、本堂の再建に向け12月1日に着工した。今回の再建で同寺が装いを新たにするのは3回目。1880年に現在の場所へ移った後、被災して8月に解体した本堂は50年前に先代の父が建て替えたものだった。「3つの本堂を経験した住職もあまりいないのではないだろうか」と鷲尾広宣住職(72)。長男の妻の実家が建設業を営んでいて、解体が早まった。

本堂解体後、結合していた部分にビニールシートが張られた浄土宗心光寺の庫裏 4月14日の最初の地震で、柱がくの字に折れ曲がりガラスは飛び出した。「これが住職の務め」と決死の覚悟で本尊を救い出した。16日の本震で、屋根の重みに耐えられず本堂がつぶれた。鷲尾住職は倒れ込んできた本棚で体を打ち、今も左手の感覚がにぶい。境内の保育園で、2週間ほど避難してきた近所の家族とともに生活した。その後移り住んだ倉庫で現在も暮らしている。

 同寺のある地域は不知火(八代)海の干拓地。地盤の緩さに差があり、100メートル先は被害がなかったという。基礎工事にあたって13メートルほど下の岩盤まで掘らなければならず、長崎県佐世保市から巨大なクレーンが持ち込まれた。

 総工費は庫裏を含めて約1億7千万円。教団の共済金制度が助けになった。7月に完成する予定で、鷲尾住職は「若い人にもお参りしやすい公民館のようなオープンな場所にしたい」と話している。

小さな寺に
 浄土宗心光寺(中央区)は11月に本堂の解体工事が完了した。全壊に近い本堂と結合した庫裏が比較的軽い被害だったため半壊の認定だったが、結合部の屋根は穴があいた。本堂との縁切り工事が済み、現在は庫裏の壁にベニヤ板を張っている。

 境内がある場所は、城下町にあたる「古町」という地域で、西南戦争で焼けた後に建てられた古い建物が多く、1キロ四方に25カ寺が密集する寺町でもある。多門誠隆住職(41)は、「みんな大きな被害を受けた」と説明する。庫裏を取り壊した寺院はほかに2カ寺あるという。県内の浄土宗寺院で本堂を解体したのは、同寺から1キロほど離れた西岸寺(同区)と合わせて2カ寺だ。

 「修理費用と耐用年数を考えると、解体の決断は早かった」。地震保険に入っていたのが救いになり、震災後すぐに設計にとりかかった。コストを抑えるために木造を選んだ。庫裏とつながっている構造上、耐震性の基準を満たすのが難しく、設計は難航している。「今後、檀家の数も減少するだろうから、規模に合わせて4間余りの一回り小さな寺にする」

 本願寺派浄信寺(益城町)は9月に着工した。解体した本堂跡地で基礎工事が進むのは、半地下に造る納骨堂だ。墓が崩れた門徒が多く、新しい納骨堂の建設を急いだ。門徒の5割以上が益城町に住み、いまだ仮設住宅で暮らす人も多い。本堂の再建は時間がかかる見通しで、会館を代わりとしている。

「僧侶のすべきことは心のケア」。後継者の小田孝道氏(42)は被災後に何をすべきか自問し、被災者のそばに寄り添おうと決意した。仮設住宅への入居が始まった昨年7月ごろから門徒が生活する仮設住宅に顔を出すようになった。フェイスブックで物資を募り、約40台のオーブントースターなども贈った。

 益城町のテクノ仮設団地と津森仮設団地で週1回、交互にお茶会を開いている。

 全国から支援の菓子が寄せられるといい、「活動を続ける限り、応援してくれると言ってくれる。一回だけの支援じゃないことがありがたい。寄り添ってくれる心強さを身をもって感じた」

吹きさらしの本堂

吹きさらしの本願寺派常通寺本堂に手を合わせる親子連れ 本願寺派常通寺(西区)で親子連れ2人が、引き戸がなく吹きさらしの本堂の前で手を合わせていた。「早く復興できるようみんな願っている」。月1回墓参りに来るという。

 正面の柱には筋交いが渡されている。この日は風が強くしまっていたが、入院中の津野田頼勝住職(73)の代わりに姉の純子さん(80)が毎日、本堂に上がる階段に設けた壇に名号を安置する。7月には大谷光淳門主がお見舞いに訪れた。

 津野田住職は震災後、境内で車中泊を続けたせいで倒れて以来、体調が戻らず入院している。もう一人の弟が月参りや法事をしているが、一緒に暮らすのは津野田住職と友人の3人で、ほかに頼る人がいない。

 地震保険に入っていたおかげで再建できた庫裏に、純子さんは高齢者用のみなし仮設住宅から通う。「ゆがみを直せば修復できる」。庫裏を建てた大工の言葉だ。純子さんは「直ると信じて残しているが、こんな状態を見続けるのもつらい」と肩を落とした。

 友人がホームページ(http://jotsuji.jp)を立ち上げ、寄付を募る仕組みをつくった。目標は約3500万円。12月時点で800万円余りが寄せられた。

原点回帰を問う
 大谷派光照寺(宇城市)本堂の被害は一部損壊だったものの、屋根に穴があき、柱にひびが入った。内陣にも被害は及び、本尊は倒れて壊れた。柱は補強材で修理し、応急措置を施してしのいでいるが、糸山公照副住職(41)は「解体してしまったほうがいい」と考えている。

 修理したといっても危険な状態に変わりない。そのため、震災後から会館で法事をしている。130軒の門徒のうち70軒以上に被害があった。「門徒も同じように被災しているし、今後は軒数が減っていく。会館を活用し、聞法道場のような形でいいのではないか」

 総代会で賛成され、糸山副住職は奔走して更地にする手はずを整えた。しかし、一旦は解体に動いた総代会の意見が、「やはりもったいない」とひっくり返った。

 本格的な補修をするには屋根や内陣、基礎もやり直さないといけないが、一部損壊の被害では費用が集められない。本堂が残ったのは不幸中の幸いだが、「中途半端に建っているために意見が分かれ、次のステップへ進めない」。厳しい現実に直面している。

 県内の大谷派寺院は8割が兼職という。市町村の合併が進む中で、寺の数だけがそのままでいいのか―。そう述べた上で、糸山副住職は「大切なのは建物ではない。法と人だ。門徒に原点回帰を問いかける意味でも、つぶしたらいい」と語った。

   ◇

 大谷派有志でつくる「TEAM熊本」は月5回を目標に炊き出しを続けてきたが、1年半経ちペースが自然と落ちてきたという。宇土市・専明寺住職の嵯峨大千代表(47)は、「気は抜けないが、落ち着いてきた」と話す。本願寺派のアンケート結果が示すように、全体的には復興へと進んでいるようだ。

 しかし、その歩みは途上にあることを忘れてはならない。益城町に隣接する東区の本願寺派光輪寺は更地にしたものの、再建の見通しは立っていない。被害の大きな地域だけに門徒にも体力はない。山田敬史住職(45)は「格差が出ている。過去のことと忘れられたかのよう」と吐露した。

 今回の取材では、地震保険などへの加入が再建を早めた要因の一つのようだった。晨所長は、備えの重要性を強調するとともに、「半壊判定以下の被害とされた寺院が多い。損壊の程度に差があるため楽観できない」と指摘した。

(仏教タイムス2018年1月1日号掲載)

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