生誕450年 今よみがえる奇僧の墨蹟 

風外慧薫―曹洞宗禅画の祖

ユーモアと滋味溢れる布袋や達磨、見事な詩偈の才能

 2018年に生誕450年を迎えた曹洞宗の画僧・風外慧薫(1568~1654頃)。曹洞宗禅文化の会(吉岡博道会長)は1年間をかけて顕彰活動を行い、ゆかりの地である群馬県安中市学習の森ふるさと学習館、神奈川県小田原市松永記念館での墨蹟展に尽力、成功に導いた(神奈川県真鶴町・中川一政美術館で関連展も開催)。ユーモアや滋味あふれる達磨や布袋の絵で、日本のみならず世界的にも愛好家の多い風外だが、宗内での知名度は決して高いとは言えないのが現状だ。そこで風外が住した小田原市成願寺を会場に、吉岡会長、山口晴通成願寺住職、それに田中機一氏、小林元秀氏、小原智司氏、鈴木潔州氏の4人の副会長に風外の魅力を座談会で語っていただき、2019年2月28日号に特集として掲載した。
 これを受け、同会が行った顕彰活動を「仏教タイムス」紙面の記事から辿る。

生誕450年 画僧・風外を顕彰 ゆかりの寺院で画に親しむ

会員寺院から多くの書画が集まった 曹洞宗禅文化の会(吉岡博道会長)は16・17の両日、群馬県で結集を開催した。群馬で生まれ育った曹洞宗の画僧・風外慧薫(1568~1654頃)の生誕450年を記念し、約40人の会員がゆかりの寺院を拝登。会が全面協力した特別展も観覧した。
 最初に高崎市仁叟寺で、渡辺啓司住職を導師に450忌法要が営まれ、同寺が所蔵する書画を拝観した。続いて甘楽町の宝積寺(西有孝裕住職)を訪れた。両寺は群馬県を代表する曹洞宗の名刹で、檀信徒への教化も活発で会員僧侶は深く関心を示した。少年時代の風外が修行したとされる安中市の長源寺(新井孝春住職)では、風外が学んだ約400年前の禅風を感じ取った。
 17日は上野国最古の曹洞宗寺院である安中市の補陀寺(足利泰徳住職)を拝登し古文書をじっくりと見た。そしてメインイベントの、安中市学習の森で開催されている生誕450年記念特別展「風外慧薫―安中で生まれた曹洞宗禅画の祖」を訪問した。吉岡会長の自坊・静岡県正泉寺をはじめとする会員の寺院から集めた約60点の達磨画・布袋画や書・関連資料などを展示。分かりやすくマンガ仕立てのパネルを作る工夫などもされた。風外の書画はピーター・ドラッカーなど世界的に愛好家が多く、明治時代にはキリスト者の柏木義円にも注目されている。
郷土の高僧の顕彰に地元民も多数来場 今回の展示に尽力した佐野亨介学芸員が解説。滝沢馬琴『南総里見八犬伝』に出てくる風外道人のモデルになったことなど意外なエピソードに、民衆の中にも親しまれた風外の一面を知った。
 特別講演として風外研究の第一人者である野地芳男氏がその生涯を詳説した。群馬から神奈川に移り小田原の洞窟で坐禅、成願寺に住持するなど活躍し、伊豆で終焉を迎えた風外の生きざまを「足で調べてみると、風外さんは一生懸命で純真でまっしぐら。これだけの達磨、布袋を描いたのだから」とまとめた。
 吉岡会長は「会員のお寺からこんなに軸を集められたのは本当にすごいことです」と強調。「今年は風外さんを推していきます」と、秋に小田原市松永記念館で行われる風外展や、秋の結集にも意欲を見せた。(仏教タイムス2018年5月24日号掲載)

画僧・風外の遺構巡拝 顕彰活動成功に達成感

田島の「風外窟」で野地芳男氏から解説を受ける 曹洞宗禅文化の会(吉岡博道会長)は14・15の両日、神奈川県小田原市で第32回結集を行い約30人が参加した。今回も春の結集に続き、江戸時代前期の画僧・風外慧薫(1568~1654頃)の生誕450年を記念してゆかりの寺院や遺構を訪ねた。
 一行はまず、風外などの禅画・墨蹟を多数所蔵する東泉院(岸清志住職)を訪れ、名品を鑑賞。93歳の岸達志東堂から禅美術について話を聞いた。
 続いて、風外が10年間住んだ洞窟「風外窟」の見学。群馬県に生まれた風外は、50代初めの頃に小田原・成願寺に居を移したが、何か思う所があってか洞窟に籠り、絵を描き始めた。
 風外窟は小田原駅から約10キロ離れた所にある。現在は近くまでは車で行くことができ、ミカン畑の農道もあるが、当時は完全に森と竹藪の中だった。「よくこんな湿気の凄い所で生活ができたものだ」と感嘆する会員も。
 洞窟を案内したのは近隣に住む郷土史家の野地芳男氏。野地氏は「風外さんは『風の外』と書きますが、病院のない江戸時代、風邪をひくと庶民は風外さんの洞窟に行って小石を拾い、治ると倍にして石を返すという言い伝えがありました。これは今でも続いています」と、庶民信仰の中に息づく風外伝承を解説。洞窟の一つには沢山の小石が敷き詰められていた。
松永記念館の記念展も大きな成功に そこから松永記念館(市郷土文化館別館)に移動し、記念展「風外慧薫―洞窟暮らしの禅画僧」を見学、貴重な自画像や、「見るからにゆるかわ」(保坂匠学芸員・談)な布袋図などを鑑賞した。新発見の絵もある充実の展示だった。
 翌日は風外が住持した成願寺(山口晴通住職)や風外が住んだもう一つの洞窟「上曽我の風外窟」、古刹・竺土寺(山根敬彦住職)などを巡った。
 風外の絵は白隠や仙厓に影響を与え、経営学者のピーター・ドラッカーに愛好されるなど国内外で評価が高いが、近年は回顧展なども少なく「知る人ぞ知る」存在だった。曹洞宗禅文化の会が1年をかけて大規模な顕彰活動を成功させたことに、吉岡会長ら一同、深い達成感を感じていた。(仏教タイムス2018年11月29日号掲載)

曹洞宗禅文化の会 真鶴で風外顕彰の結集

天神を祀る「風外堂」について有澤敏勝氏から解説 昨年1年をかけて画僧・風外慧薫(1568~1654頃)の顕彰活動を続けてきた曹洞宗禅文化の会(吉岡博道会長)は4日、風外ゆかりの神奈川県真鶴町で結集を開き、約30人が参加した。風外は寛永5年(1628)年に小田原の洞窟を出て真鶴に移り、領主である五味家の庇護を受け20年ほどの長期にわたって住んでいたとされる。

 風外「大字二行十二副対」を所蔵する曹洞宗瀧門寺を拝登諷経し、川口仁齊住職から書や寺の縁起の説明を受けた。12幅の風外の書を持つのは日本でも最大級とみられている。真鶴港からほど近い「風外堂」を拝観。堂とはいうものの石で造られた小さな天神宮であり、五味演貞が願主となって慶安元年(1648)に風外が開基となったという歴史が真鶴町観光協会専務理事の有澤敏勝氏から話された。

 瀧門寺の所蔵する「大字二行十二副対」の真筆は町立中川一政美術館で開催中の、同会も協力する特別展「中川一政と禅―奇僧風外慧薫と真鶴」(3月26日まで)に出品中。そちらを訪れ、加藤志帆学芸員のレクチャーのもとで風外の書画を堪能した。中川一政(1893~1991)は洋画家ながら禅や仏教の影響を受けた作品も残しており、エッセイには風外に言及したものもある。またこの日、初代真鶴町長松本赳氏の孫である松本茂氏も来館しており、吉岡会長らと懇談した。松本赳氏は1932年に『奇僧風外の事蹟』という本を出版している風外評価の先駆者で、サプライズに会員も嬉しい驚きを感じていた。

 最後は風外が「貴船大明神縁起」を写し書き奉納した貴船神社を訪れた。同会が神社を訪れるのは異例ながら、この「貴船大明神縁起」のみが風外の生年を確定させる貴重な墨蹟ということもあり参拝。平井倫行権禰宜と語らった。

 吉岡会長は「昨年は2回、風外関係の結集をしましたが、もう一つ残したところがあるとして番外編で真鶴を訪れました。史跡では風外の足音を直に感じられ、美術館では中川一政さんの禅への関心を知ることもでき、大いに感銘を受けました。風外さんは宗門僧侶にも地元の人にももっともっと知ってほしい人物です、ぜひ訪れてほしい」と手応えを語った。鈴木潔州副会長は東京での風外展の開催にも意欲を見せている。(仏教タイムス2019年2月14日号掲載)

風外の生涯 奇僧の行脚

小田原市・成願寺山門には山口晴通住職の建てた「ゆかりの寺」看板 風外慧薫は永禄11年(1568)年、上野国土塩村(現在の群馬県安中市松井田町土塩)で生まれた。土塩に残る伝承によれば幼少時に同地の乾窓寺に入れられたという。上後閑の長源寺を経て上州屈指の大刹・雙林寺に上がったと考えられている。風外の漢詩の才能はこの上州時代に育まれたと見られる。
 風外が住んだと伝わる寺はいくつかあるが、『日本洞上聯燈録』にも記述があり確実に居たと現時点で断言できるのは一カ寺。相模国小田原(神奈川県小田原市)の成願寺である。当時、成願寺に住職がなく、多くの人からの要請があって籍を置いたという。風外研究家の松本赳氏(初代真鶴町長)によれば、同寺に口伝されている、朝夕の勤行の時に唱える歴代住職の名前に風外慧薫の名があるという。籍を置いた時期は竹内尚次氏によれば元和年間(1615~1624)の2~3年間だった。風外晩年の代表作「瀟湘八景図」や「達磨図」を恪護している同寺は、風外慧薫ゆかりの寺として地元民の尊崇を集め、仏教美術史の上でも注目されている。
 その後、『洞上聯燈録』によると「居ること数載稍意の如くならず」として成願寺を出て独り上曽我や田島の洞窟に移り住んだ。自ら木を切り水を汲み、坐禅と絵画に勤しむ生活で、「穴風外」と称されたという。風外の墨蹟の名声は日に日に高くなり、来訪者も数多くなったため、風外は煩わしくなったのか小田原からさらに南に下り真鶴の洞窟に住むことになった。真鶴では当地の名主である五味家の庇護を受け、20年ほど住んだ。
安中展の図録 その後は伊豆の山中に隠れた後、竹溪院(現在は廃寺)に3年間住んだ。晩年は遠江国金指郷石郷岡(現在の浜松市北区引佐町)に移り、単丁庵に住んだ。ある時、工夫を雇って穴を掘らせ、その穴に自分を埋めるよう命じて立ったまま埋められ遷化したという。まさに奇僧というにふさわしい生涯であった。
 墓所は浜松湖北高校の南側にある。松本赳氏が風外終焉の地を調査し、金指町長だった内田幸治朗氏らにより1931年に発見されたものである。
 風外の墨蹟はピーター・ドラッカーなど海外でも愛好する人が多い。長く大規模な展覧会はなかったが、2018年に曹洞宗禅文化の会が総力を挙げて顕彰し、群馬県・神奈川県で記念展が開かれたのは特筆される。没後には名前から風封じの御利益がある僧侶と親しまれたり、『南総里見八犬伝』に登場するなど民衆の間にも根付いた僧侶だった。風外の再評価と研究の深まりは今後も期待される。
 風外慧薫の研究書の金字塔としては初代真鶴町長だった松本赳氏の『奇僧風外の事蹟』(1932年)が挙げられる。この後、平塚市文化財保護委員会『風外慧薫禅師とその作品』(1960年)や竹内尚次『思想の群馬―風外慧薫・関孝和・内村鑑三』(1983年)なども出版された。
 2018年に安中市学習の森ふるさと学習館で開かれた展覧会の図録『風外慧薫―安中で生まれた曹洞宗禅画の祖』が非常に充実している。展示された43点の墨蹟のカラー写真だけでなく、詳細な伝記やゆかりの寺院の解説、民俗伝承などを収録。曹洞宗禅文化の会事務局長の鈴木潔州氏の論文「曹洞宗禅画の祖 風外慧薫の行履」も、風外ひいては曹洞宗禅画研究の上では必読のものとなっている。

「風外窟」で記念撮影(2018年11月)曹洞宗禅文化の会=吉岡博道会長(静岡県藤枝市・曹洞宗正泉寺東堂)。書画・墨蹟を中心に幅広く禅文化を研究・顕彰していくことを目的に2003年に「禅文化洞上墨蹟研究会」として結成され、2017年に「曹洞宗禅文化の会」に改称。これまで33回の「結集」を行っており、全国各地の曹洞宗寺院を拝登。寺宝の拝観や歴史の学習を通して研鑽を続けている。月舟宗胡や大智禅師らの再評価も促した。現在の会員は僧侶・一般人合わせて約300人。入会の問い合わせは事務局の嶽林寺まで。