仏教タイムス創刊70周年特集 草創期の歩みをたどる ―被爆地広島から東京へー

 昭和21年(1946)7月25日。終戦の玉音放送から1年が経とうとしていた真夏の広島で、『仏教タイムス』は、本願寺派僧侶の常光浩然(1891~1973)によって創刊された。70年を経て当時のことを知る存命者は皆無に等しいが、長年にわたる愛読者で当時広島にいた広島県呉市の浄土真宗本願寺派西教寺前住職の岩崎正衛氏(86)に終戦前後のことを伺った。岩崎氏の話から創刊の地である広島の宗教的特徴と現在の『仏教タイムス』との間に紡がれた縁を見出すことができた。岩崎氏の記憶とバックナンバーから草創期の歩みを特集する。(『週刊仏教タイムス』2016年7月28日号掲載)

始まりは広島別院と光道小学校

焼け野原の中央にあるのが光道小学校。鉄筋校舎であったため、建物が残った(『財団法人闡教部百年史』より) 昭和20年8月6日。原爆が広島に投下された。常光は三次市の自坊覚善寺の客殿から「望見」した。

 同じ頃、岩崎氏は広島の町から山一つ越えた疎開先で閃光を見た。「町からそれほど離れてはいなかったが、山が爆風から守ってくれたのだと思う」と振り返る。当時、15歳。広島県立第一中学校の生徒だった。勤労動員で、空襲により町が延焼しないように家を壊して空き地にする「建物(家屋)疎開」という作業に従事していた。

 当日は、市内でこの作業にあたるはずだったが、組主任であった教員の判断で自宅修練になった。「確か月曜日だと思うが、数日前に米軍がまいた伝たん(ビラ)を先生が拾い、この日に何かありそうだと連休になった。周りからは大きな反対にあったが、先生が職を賭して休みにしてくれたことを覚えている」

 広島一中は爆心地から約1キロ離れた国泰寺町にあった。登校していた生徒や建物疎開の作業に出ていた生徒は全員焼死した。校舎も全壊・全焼し、「何も残らなかった」という。

現在の本願寺派広島別院。これらの場所が創刊当初の拠点となった 市内では、防火水槽に頭を突っ込み下半身が焼け落ちた女性の遺体や隊列を組んだまま息絶えている兵士など、町のいたるところで死を目の当たりにした。中でも原爆ドームにあった両腕を後ろで縛られた死因の分からない若い米軍捕虜の死体が忘れられない。「皆、唾を吐くでもなく、罵るでもなく、ただ静かにその死体を見つめていた。あの静けさを今も覚えている」。焦土と化した広島の町は、どこまでもガレキと遺体で覆われ、「海まで見渡せるような」状況だった。

 昭和21年7月25日付の『仏教タイムス』創刊号の発行所は「本願寺派広島別院内」とあるが、その広島別院も例外ではなかった。原爆投下の目印とされた相生橋から北1キロ弱に位置する同別院は、本堂含めすべての建物が灰燼に帰した。

 創刊の2カ月前、終戦から翌年の昭和21年5月に仮本堂が建立されるまでは、他の寺院に広島別院の仮寺務所を置き、別院としての機能を移転させていた。当時の大谷光照門主を迎えて仮本堂の落慶法要が厳修されたものの、その規模は以前の15分の1であったという(本願寺派安芸教区発行『見真』457号)。 次のページへ

創刊号より「仏教タイムス 発刊に際して」

創刊号のコピー(現存はない)。「佛教タイムス/発刊に際して」の見出しがみえる
 広島は仏教王国である。敗戦はこの広島市街に投げられた原子爆弾から発生した。一躍世界に有名になった広島から、新世紀の創生が打ち出されても不思議でない。或る地理的意味からも明治大帝がヒロシマを指した事にも暗示が含まれている。日本神話は大和からであったが、自由と民主主義の濫觴は先ず日本の中心広島からとの理念から、新らしい平和日本、文化日本、宗教日本の建設は広島を円心として世界に拡大されるべきだと信じ、ここに仏教タイムスを同志相はかりて刊行す。母胎、広島仏教連合会と仏教伝道協会であるが、力と革新の使命を全日本に広めるヒロシマとして神、仏、基の何教たるを問わず、汎ゆる文化、汎ゆる宗教の根元として、そのニュースの報道と啓蒙と指導力を持った太陽ヒロシマにすべく、ここを新生日本の発祥地として今後あらゆる面で一大躍進と進展を遂げんとするものである。その連絡、宣伝機関として仏教タイムスを日本の名において否、全世界の自由なる宗教の名において創刊するものである。大方諸賢の絶大なる支援をたのむものである

(編集部注 旧字体を新字体に改め、点・丸を補った)