常光浩然と中山理々 戦後の仏教界に足跡
常光浩然(1891~1973)中山理々(1895~1981) 常光は昭和25年10月に上京し、子息の住居(荒川区内)に落ち着き、新聞発行を続けた。上京に際しては大谷派僧侶である中山理々(1895~1981)の働きかけがあった。
昭和25年5月、セイロン(現スリランカ)で第1回世界仏教徒会議(WFB)が開かれた。中山を含めて、日本人参加者は3人。曹洞宗の高階瓏仙禅師がこの席で2年後の大会を日本で開催したい旨を発言した。帰国した中山は8月に広島で常光と会い、このことを伝えた。東京進出を考えていた常光に異論はなく同年10月に上京したのだった。
ところで、中山理々は後に世界宗教者平和会議(WCRP)創設にかかわり、第1回京都大会にも出席している。彼の原点の一つが昭和20年3月10日の東京大空襲体験である。あまりの惨状に中山は、「一日も早く、この無謀な戦争をやめさせたい」と思い、駐日バチカン公使のマレラ大司教を連れだして、江東や深川の焼け野原を案内した。これがどこまで終戦につながったか明らかではないが、実行の人であった。
その中山は関東大震災後に創刊された『教学新聞』を出していたが、昭和25年頃は休刊していた。そして昭和28年4月、『仏教タイムス』に合流したと紙面を通じて発表した。
第2回世界仏教徒会議日本大会のあと、地方大会が開かれ、広島も会場となった。参加者は原爆ドームを視察した(昭和27年10月 全日本仏教会提供) 『教学新聞』で健筆を振るっていた奥田宏雲(本願寺派僧侶)、大東出版社社長の岩野真雄(浄土宗僧侶)らが『仏教タイムス』の紙面作りを支えていた。一方で常光は全国を行脚し、協力者拡大に努めていた。
昭和27年の世界仏教徒会議日本大会を開催するために常光と中山らは受け入れの組織作りを急いだ。翌26年2月に日本仏教徒会議が発足。総委員長にはパーリ語学者の長井真琴博士が就任した。所属宗派にとらわれない仏教者たちは自由仏教人(徒)と呼ばれた。
昭和27年9月末から10月にかけてセイロンに続く第2回大会が日本で開催された。東京で中心的な大会が開かれ、京都で閉会式的な大会が行われた。その後、各国参加者は全国各地に分散した。広島大会は10月12日。「(海外代表は)平和広島の原爆犠牲者追悼大会に出席。午後は本川小学校講堂の広島大会で、仏舎利塔建設の発表があり、席上各国代表から50万円の喜捨があった」(1961『佛教大年鑑』)。講堂とあるが、実際には野外での法要だった。海外一行は原爆ドームや資料館を視察した。
他の組織との摩擦や問題に直面しながらも常光には達成感があった。「本紙は日本仏教徒会議の立場を明らかにし、よく難局打開に努めた。そして第二回世界仏教徒会議が終了するまで、その機関紙として充分使命を果たし得たことを、輝かしい思い出としている」(昭和30年7月25日付)
日本仏教徒会議は大会後に世界仏教徒日本連盟となり、昭和29年6月、仏教連合会と一つの組織となった。「全日本仏教会」の誕生である。(おわり)
特別寄稿:企業人たちも協力―東京の寺院と縁深く(山田一眞・東京都仏教連合会前理事長) |