シリーズ原発と僧侶 仙台編
【日蓮宗法運寺住職/梅森寛誠氏】
スリーマイル、チェルノブイリの大事故は、原発は安全という神話も同時に吹き飛ばした。“知ったら言わなくちゃいかん”と、「エコロジーほっけの会」を結成した仙台市・日蓮宗法運寺住職の梅森寛誠氏は、女川原発への取り組みから、僧侶と原発の関わりを問う。
私が原発に興味を持ち始めたのは少し古い。私はありきたりの観念的な硬派学生であった。1970年代後半以来、原発の存在はいささか気になるものとなっていたが、1979年3月の米国スリーマイル島の炉心溶融事故は衝撃以上のものを与えた。何しろ「起こるはずのない」事故が現実に起こったのだから。
原発への疑問は不信感へさらに憂憤へと変わっていった。原発に関する書物を意識して読み始め、知識と情報を得ようと努めた。
県内の女川(おながわ)に大変なことが起こりつつあることを知った。莫大な漁業補償と引き換えに漁場を捨て町を去る漁師、札束による露骨な買収工作、地縁血縁に縛られ声高に反対できない地元住民、カネによる精神荒廃の数々……。
さらに同様のゆゆしき事実が、他の原発立地においても展開されている事を、一仏教者から聞いた。若狭の真言宗僧侶中嶌哲演師である。仏教の「不殺生」“殺すことを見のがすな”という指摘にある雑誌の上で出会った。約10年程前のことである。仏教僧侶が原発という国家権力の巨悪に、真正面から立ち向かう姿に強い感銘を受け、また勇気付けられた。
しかし私は知っていて行動しなかった。できなかった。せいぜい本堂掲示板に「反核=反原発」と大書したぐらいか。発言しても「声」にならない状況でもあったが、既存の団結闘争して何かを勝ち取る○○運動の類が、どうしても肌に合わなかったのも事実である。
そうこうするうちに、1984年に女川一号炉が営業運転、1986年4月にはあのチェルノブイリ原発が核暴走した。政府・電力業界は何ら反省せず、傲慢な姿勢を貫く。いかに凡愚な私でもここでようやく目が醒めた。
「私はスルーマイル島事故によって原発の故にチェルノブイリ事故が起きた。私は原発反対といいながら、実は推進と何ら変わりがなかったのではなかったか」という自己反省がその後の取組への決定的な出発点となった。
日蓮聖人は言う。「日蓮此を知りながら人人を恐れて申さずば仏陀の諌曉を用いぬ者となりぬ。いかんがせん、いわんとすれば世間おそろし。止んとすれば仏の諌暁のがれがたし。進退ここにきわまれり」―聖人の法華経弘通に当たっての心の葛藤である。
原発や放射能の真相については知らない方が幸せで快適かも知れない(連日の欲望をそそる情報、使い捨てムダ遣いの奨励)。しかし「知らない」が故にチェルノブイリの惨状を招き、さらに福島第2原発の危機一髪を導いた。
天からの警鐘は何度も発せられている。私はすでに知ってしまった。そして全世界が知りつつある。この国は国民が「知る」ことを巧妙に回避させ、知っても行動を抑制させる。
だが少し待て。私たちが世界で一番先に「知った」のではなかったか。広島長崎の辛い体験を経て原発を容認することがあり得ようか。知って言わぬは堕獄の罪である。このまま無間地獄に向かうのか。とても傍観などできない。
「エコロジーほっけの会」を名のりました
原発の怖さ、罪悪さを知った人間が具体的に何をはじめたか。そこに順序や形式があるわけではない。ただ人々に知らせる(布教)のみである。檀信徒へ、一般未信徒へ、市民グループへ、そして教団へ向かってのアピールである。
1988年春、冊子『宗教者と原発覚え書き』を書き上げ、周囲に配りまくった。参拝者の法話でも言及した。教団内部には研究会議を利用して問題提起を行った。その間、市民グループとの接触交流もはじめた。
ただ私は宗教者としての思想行動を追求してきた関係上、グループ内に埋没することは避け、共同と単独のバランスを考慮、活動を模索した。
ところで、原発を考えることは、一人ひとりの生活、生き方を問うことであるから、個人や家族単位での取り組みが中心となる。一般的に考えられているような推進派対反対派の対立構造というよりは、すべての人々個人のあり方が問題となる。
実はその点について、1988年夏、象徴的な出来事があった。女川2号炉公開ヒアリングの際の動向である。「この日は反対抗議に集まろう」と呼び掛けがかけられていたが、私は朝から何か落ち着かない。結局、予定時間を過ぎて女川へ急行したが、すでに道という道が機動隊に占拠されているではないか。他の予定が迫っていたのでやむなく引き返してしまった。
その間、妻はヒアリング開始時間に電力本社に電話を入れていた。「原発止めてほしいんですが」「イヤ、これは政府の…」「あなたにも家庭があるでしょ、子供もいるでしょ」「ウン(深い沈黙)…」
この日の出来事は、私に原発の本質を教えてくれた。釈尊は「天上天下唯我独尊」と個別の違いの中に崇高さを見い出された。違いを尊重し、権威の中に身を置くのではなく自己を解放するのだ。
既成の反原発運動ですら「組織」という罠に陥っていたのではないか。企業組織建前中心の「男性」に代わって、家庭個人本音中心の「女性」が脱原発運動を担うようになるのは自然である。
仏教者らしからぬと言われるかも知れない。しかし私は、家庭やその中心をなす女性子供の次元にこだわり続けたい。私は妻や子供たちを伴う機会が多くなった。
そして1989年には「エコロジーほっけの会」を名のることになる。これは結成ではない(解散もない)。つまり特定の組織団体ではない。エコロジカルな法華経、仏教教理の実践理念を行動する者の名称、無数の「地涌の菩薩」を意識した「普通名詞」である。
命名の後、早速7月には協同で女川2号炉反対現地行動を実施した。この時は自坊を宿泊所に開放、当日は原発ゲート前での原発悉退散「表白文」を宣言、街頭を撃鼓唱題行進した。電力側は権力と規制によって縛ろうとするが、信念の声に次第にタジタジとなる。
太鼓と唱題の高揚は敵味方を遥かに超えて、「いのち」を喚起する。ようやくわかった。原発=「提婆達多」の善知識によって「法華経を読む」私がいる。友人がいる。
「サイトウサン ヘンジクダサイ」
寺にあって脱原発を説くことは、対檀信徒間でいささかの軋轢を生む。寺を宿泊所にしたことの誤解もあった。電力会社に勤め原発推進に関わる篤信のA氏のことも気がかりだった。身近なところからこの種の問題を克服しなければと思い、中央レベルの研究会議に「篤信A氏」を発題した。実はそこから思わぬ展開が広がる―。
当初、私は「原発を檀信徒にどう説くか」ぐらいの気持ちで提言した。ところがこれと前後して、1989年5月、海部内閣発足に伴い斎藤栄三郎氏が科学技術庁長官に就任する。斎藤氏は日蓮宗の代表的な檀信徒の一人で信仰篤い方と聞いている。その彼が我が国の原子力政策の最高責任者となり、早々と「原子力は必要」と明言した。
ここに至って、会議に発題した原発推進の「篤信A氏」は実は斎藤氏のことではないか、と思い当たったのである。10月、日蓮聖人入滅の日に斎藤長官あてに一通の手紙を出した。氏の原発政策の真意を尋ね、氏の専門の経済面、また信仰面から問いかけ回答を促すものであった。
檀信徒の問題がにわかに国家諌曉的色彩を持つものになってしまった。「立正安国・仏国土顕現」の祖願行動は意外にすぐそこにあった。全く意識しない間に。しかし予想通り? 返事は来ない。
翌1990年4月、チェルノブイリ事故4周年目、「脱原発法」制定に向けて全国規模の集会が東京でもたれ、私も参加した。国会請願デモを撃鼓唱題にて進んだ後、参議院議員会館へ単独に足を運んだ。行先は斎藤栄三郎事務所である。
本人不在のため秘書に面談し、同信の立場から再度質問とその回答を要請する手紙を手渡し、伝達を約束した。日蓮聖人立教開宗聖日の前日、私の「エコロジーほっけ」直接行動であった。
しかし2ヵ月半経た今、反響は聞こえてこない。教団の僧侶檀信徒共々に(一部活動的な友人もいるが)静かだ。徒に事を構えたくない、これが大半を取り巻く空気なのか。
過日、私は原発の実態を生の形で知らせるべく「中嶌哲演講演会」を企画した。中嶌師は真言宗僧侶である。同門の僧侶にショックを与えてほしい、というのが本音であった。
改めて考えてみると、私の所属する日蓮宗は、仏教各宗派の中で最も動き易いはずである。法華経の悉皆成仏思想、宗祖の立正安国の誓願と行動、いずれもそのまま現代の私たち(日蓮宗徒)が宗義信仰に忠実に行動実践する、それだけである。恐れるのは仏法のみである。
少し前、ある他宗寺院の老住職は私にこう言った。「かつて日蓮さんは四箇格言(諸宗批判)を行った。これを私は『よくぞ的を得た批判をしてくれた』と感謝しています…」
私は咄嗟に思った。「ああ、私たちのために『法華経は、日蓮さんは、今どうなっている?』と諫言して下さい」。断言しよう。「立正安国・仏国土顕現」(教団の願行)は具体的には、原発を拒否する中にしか実現不可能である。最早煩瑣な説明は要しない。
――――佛教タイムス1990年7月15日号、7月30日号、8月5/15日合併号掲載