<本だな>最新記事
2025/3/24
<本だな>『万博学 第3号』万博学研究会 編 思文閣出版
特集は「大阪万博前後の世界」。福間良明氏と飯田豊氏の対談「『昭和四〇年代論』の可能性」では、日本において万博が振り返られる際に、ほとんどが大阪万博について語られているとしつつ、沖縄国際海洋博覧会(昭和50年開催)を大阪万博と地続きと捉えることで、高度経済成長と戦後日本の開発、戦争責任論などを考えるヒントになることを示す。
それとつながるのが君島彩子氏の論考「沖縄国際海洋博覧会と平和祈念公園の成立」である。海洋博協会会長だった大濱信泉、参議院議員の稲嶺一郎が海洋博の準備と並行して造営した沖縄平和祈念公園の隣地には、山田真山が造った沖縄平和祈念像を恪護する平和祈念堂が建つ。「大濱と稲嶺の意識において、観光開発による沖縄の経済振興の場となる海洋博と、沖縄戦によって失われた多くの死者を弔う平和を願う慰霊観光の中心地、ふたつの異なる意味をもつ空間づくりを同時期に進めていた」のだ。政治と慰霊は政教分離という難題にも関わってくる。今年は複数の教団が平和祈念堂での戦後80年法要を予定しているが、読んでおくべき論文だ。
牧原出氏の「高松宮と万国博覧会」は、昭和天皇の弟の高松宮が戦後、博覧会を通じて皇室(王室)外交に少なくない役割を果たしていたことを記す。このほか中牧弘允氏や井上章一氏も執筆。(A5判・236頁・価2750円)
2025/3/24
<本だな> 『列島縦断 日本の墓 失われゆく墓石を訪ねる』関根達人 著 吉川弘文館
6年ほど前に公開された映画『洗骨』は沖縄の島に残る洗骨の風習を素材としている。遺体の入った棺を海岸近くの所定の場所に置き、4年後に開けて骨を取り出しきれいに洗って、再び納骨する。そこに墓石らしいものはない。
いわゆる長方形の墓石を見慣れた人は、違和感を持つことだろう。だが、著者が言うように「時代や地域、階層によって墓のあり方は大きく異なる」。換言すれば多様な納骨(埋葬)文化が日本に存在する。タイトル通り、日本列島の各地に残るさまざまな墓や墓石に“光”を当てる。何よりも豊富なカラー写真が、それを伝える。
遺体を埋葬する墓(埋め墓)とは別にお詣りする墓(詣り墓)を建てる両墓制。「土葬を前提として16世紀頃に畿内を中心に墓石の普及によって生じ」各地に広がっていたという。両者は離れていることが多いが、香川県の佐柳島(猫で有名)は隣接している。埋め墓は自然石がゴロゴロし、詣り墓は見慣れた墓石が並ぶ。埋め墓は集団埋葬地帯のような雰囲気でもある。
著者が驚いたお墓が栃木県茂木町の曹洞宗塩田山能持院にある常陸谷田部藩主細川家の墓所だ。「歴代藩主の墓標は、二代藩主の宝篋印塔を除き、全て墓石の代わりに植えられた杉なのである」。そこは杉並木のようで、お墓とは気づきにくい。著者は「できた当時、少なくとも外見上は今流行の『樹木葬』とそう変わらなかったであろう」と推察する。
無縁社会と言われる現代、墓や墓石の写真等を通じて弔いの意義を改めて考えたい。(A5判・160頁・価2420円)
2025/3/10
<本だな> 『無住道暁の拓く鎌倉時代 中世兼学僧の思想と空間』
土屋有里子 編 勉誠社
『沙石集』『雑談集』などの仏教説話集を編み、中世という時代を透徹した目で見つめた鎌倉時代後期の遁世僧・無住道暁(1226〜1312)。彼は、「いつどこで誰に出会い、どのような教えを受け、その教えの中で彼が何を選択し、その結果をどのような形で作品として遺したのか」(序文=土屋有里子氏)。無住研究のトップランナー13人の論考14本から、多面的で重層的な無住の生涯を明らかにしていく。
第一部では東国や尾張、伊勢、京をめぐって無住の「修学と環境」を浮かび上がらせ、稀代の兼学僧であり文学者であった無住がどのような過程を経て形成されたのかを丹念に辿る。
源頼朝の側近だった有力御家人で討伐された梶原景時の孫として生まれた無住は仏門に入り、天台・真言両宗に加え新たに親鸞専修念仏や真言律宗が混在する常陸国で青年期を過ごした。巻頭論文「常陸の宗教世界と無住」(亀山純生氏)では「常陸の宗教動向を一身に体現」し諸宗を兼学した無住の視座について、「特に鹿島神宮寺圏・真言念仏圏と重なりつつも、正統派仏教による寺院・領主の民衆支配の貪欲を批判し、最も民衆目線で彼らの現世安穏・後生善処に応答する立ち位置にあった」と指摘。中世を「災害社会」と捉え、「民衆の悲惨を凝視し共苦し」た親鸞の「立ち位置」と重ね合わせる。
「無住と鎌倉―鎌倉の仏教関係説話を中心に」(追塩千尋氏)では、教科書的な鎌倉仏教のイメージと無住の目を通した鎌倉仏教の様相は「隔たりが大きい」と考察。鎌倉仏教論深化のためのテーマを提起する。
第二部は説話集編者としての「文芸活動」を追究。無住が依拠した諸典籍、同時代の仏教説話集、無住と関係が深い尾張万歳や和歌陀羅尼観などを手掛かりに、無住が切り拓いた文学世界の新地平を提示する。
各地に赴いて僧侶間ネットワークの中で学び、鎌倉幕府にも深い関心を寄せた無住。来年は生誕800年の節目となる。無住の足跡を通して鎌倉時代を巡礼する旅の現在地であり、今後の無住研究の方向性と可能性をも示した本書の刊行は、生誕の勝縁を予祝する慶讃事業であるとともに、無住本人への最大のプレゼントとなった。(A5判・216頁・価3080円)
2025/3/10
<本だな> 『世俗仏教の倫理と死の意味の哲学』
スティーブン・バチェラー/一ノ瀬正樹/碧海寿広ほか 著 武蔵野大学出版会
武蔵野大学は創立100周年事業の一環で「カンファ・ツリー・ヴィレッジ・プロジェクト」を進めており、世界の課題に向き合う識者を招き対話の場を開いている。本書はその成果をまとめた叢書シリーズの第一弾。
「世俗仏教」を提唱し、欧米を中心に支持者を増やしている仏教の著述家で活動家のスティーブン・バチェラー氏と同大教授で哲学者の一ノ瀬正樹氏の対話を通して「死の意味」を探求する。バチェラー氏はチベット仏教における死の瞑想の体験により「生きていることの尊さ、特別さ、素晴らしさをより強く意識」することになったと人生の転機を語る。一ノ瀬氏が投げかける「死の意味」という問いを多角的に捉えながら、「他者とどう生きるか」「信念の倫理」といった議論が、仏教と西洋哲学の視点が交わりながら展開する。
碧海氏による「スティーブン・バチェラー論」では「世俗仏教」の概要を解説。スコットランドで生まれ、インドで仏教に出会ったバチェラー氏はカルマの研究と実践を重ねるなかで「信仰ベース」ではなく「実践ベース」の「世俗仏教」を提唱する。仏教とは「行為と責任の哲学」であり、「輪廻転生の真偽を問うこと」ではなく、「どのような生き方をすれば善いカルマを積み重ねられるか」という実践的な問いを重視する。世俗仏教に対する批判的な意見を紹介しつつ、日本仏教の現状と課題を「実践」という視座を通して考察する。(A5判・216頁・価2200円)
2025/3/3
<本だな> 『ニューカマー宗教の現在地 定着する移民と異教』 三木英編 七月社
出生率が減少し、多死社会になる一方で、日本に移住して学問・勤労する在留外国人は増加傾向である。外国出身のコンビニ店員がレジ対応してくれるなど、珍しくもない。隣の家に移民が住む時代である。もちろんそれは、喜ばしいことだ。
しかしそうなったということは、外国出身者が持つ文化、本紙的には特に信仰、についても理解を一定、深めなければいけない時代ということでもある。本書は、在日ブラジル人社会におけるペンテコステ教会の意義や、ムスリム土葬墓地、台湾の天道などの事例から、日本社会・移民・宗教を考える論集である。
編者による第三章では在日ベトナム人の仏教寺院である姫路の2カ寺の調査に基づき、そこが「ないと困るし、あったほうが良いに決まっているのだが、いつも気にかけ続けなければならないほどでもない、『保険』のような場所」となっていることを論ずる。一方でそこで出会った、故郷を同じくする仲間たちとの交流はかけがえがないものだ。なお寺院の土地購入などに大きな協力をしているのが、市議会議員(おそらくベテランで保守系と見られる)だというのは、移民と日本社会の関係性において興味深い。
岡尾将秀氏は第七章で、在日スリランカ人信者が主体となる静岡県のスリランカ系仏教寺院富士スガタ冥想センターを論じる。日本人がプージャ/ダーナ(布施)へは控えめな関与ながら修行に真面目に取り組む様子が、スリランカ人からもそれなりに尊重されている姿があり、アジア系移民の増加に伴い増えることが予想される上座部寺院が、どのように布教し互恵できるかの参考となるケースだろう。(A5判・272頁・価4730円)
2025/3/3
<本だな> 『戦争宗教学序説 信仰と平和のジレンマ』
石川明人 著 角川選書
軍事や戦争と宗教の関連を刺激的なタイトル(例えば『戦争は人間的な営みである』『すべてが武器になる』)で世に送り続けている著者。今回も敬遠されがちな宗教と戦争の関係性をより深く掘り下げていく。
加藤清正のものと伝えられる兜には「南無妙法蓮華経」が荘厳され、直江兼続の「愛」兜は愛染明王を意味するとされる。戦艦「大和」には天理市の大和神社から分祀された神棚があり、戦艦「武蔵」にはさいたま市の氷川神社の神棚がある。米国の自動小銃の照準器には聖書の箇所を示す記号が刻印されている。このように軍事と宗教には親和性がみられる。
米軍の従軍チャプレンは、日本の従軍僧とは比べものにならないほど歴史があり、かつ地位が高い。米陸海空軍に置かれている「チャプレン科」は1775年から制度化され、士官(将校)に位置付けられる。
歴史を見ると、どの世界的な宗教も戦争と無縁ではなかった。著者は「平和」は、「『戦争・軍事』と同じ地平で検討されるべき」と提起する。さまざまな紛争に直面している現代だからこそ、宗教・平和・戦争を同列に論じる機会かもしれない。(B6判・304頁・価1980円)
2025/2/25
<本だな> 『世界の食料安全保障 わが国の食料と農業を取り巻く国際環境』
板垣啓四郎 著 筑波書房
副題「わが国の食料と農業を取り巻く国際環境」が示すように、国際的な視点に立ちながら日本の食料と農業を考える構成となっている。
アジア地域はじめアフリカ、ブラジルなど途上国農業と同時に、アメリカ、カナダ、EU、オーストラリア、ニュージーランドの先進国農業の現状を詳細に分析・解説していく。これらからみて嘆息せざるを得ないのは、日本農業・食料事情の貧困さだ。もちろん政府はそれなりの政策をしていると思われるが、国民自身が現実を直視していない可能性がある。
日本は食料自給率が低く、多くを海外に依存している。しかし紛争や気候変動によっては深刻な状況に陥りかねない。まさに安全保障にかかわる問題でもある。処方箋として著者は「わが国の食料安全保障は海外との取引関係がさらに深化していくことを前提にして組み立てていくほかな(い)」と提起する。そのうえで日本の果たすべき役割を説示する。(A5判・147頁・価2750円)
2025/2/25
<本だな> 『禅門の異流 盤珪・正三・良寛・一休』
秋月龍珉 著 講談社学術文庫
著者の秋月龍珉(1921~1999)は、鈴木大拙の禅堂の弟子である。即非庵とは、恩師鈴木大拙より受けた草庵の名前である。本書は、臨済禅や曹洞禅の影響を受ける盤珪永琢、石平(鈴木)正三、大愚良寛、一休宗純の四人の禅僧に焦点を当て、「禅門の異流」として紹介する。
異流とは、本流に対するいい方であろう。しかし、ここには自己に忠実に生きた禅僧のせきららな生の姿がみられる。この世の無常を達観し、反骨をむきだして時の俗僧に背をむけ、天下と庶民の生活に放下する姿がある。そこに異流といえる僧形の姿があった。明徳とは何ぞと自問し、一切の事は不生でととのう仏心を『語録』に説いた盤珪の不生禅、公案にたよらない大衆の在家禅へと悟入する『驢鞍橋』には正三の自己を守る強い仁王禅が念仏とともにある。わが詩は詩にあらずと『詩歌集』の愚者良寛の禅思想には、恋も浄土も透けてみえる。洒脱自在の『狂雲集』には、雨ふらば降れ、風ふかば吹けの禅と詩を身体とする一休の風狂が事件となった。
「禅門の異流」とは、これらの僧形を活写した禅定の歴程と「仮名法語」による在家への悟りの現成が特色である。僧形の道心がテクストにこめられて流れ出る。そこに日本の大乗仏教の心性の内実があり、悟りの形をみる。小林秀雄が本居宣長を本居宣長自身に語らせたように、それぞれのテクストに分け入って原典をあるがままに引用で語らせる。
禅門に大乗仏教を体験しつつ、その真髄を伝える秋月の詩心の気息を本書の禅の祖師の流れとその継承された法語や詩歌にいかに読み解くか。著者の引用と解説にこそ、慈悲に溢れる仏心と自省の心音(パラダイス・リゲインド)をじかに聞くことができるだろう。
解説には、『良寛 その仏道』を上梓した秋月の直弟子の竹村牧男氏による「禅の圧倒的な個性と多様な魅力」と題する懇切な「異流の禅者」たちの法語が添えられている。『秋月龍珉著作集』は三一書房刊。(文庫・340頁・価1496円)評=岡本勝人(詩人)
2025/2/17
<本だな>『中世寺院のネットワーク 文書・記録と聖教から』
永村眞 著 吉川弘文館
古代から中世に至り、多彩な仏法の華を咲かせた寺院社会。それを可能ならしめた根茎には、高度に発達した師から弟子への伝授とそれぞれの歴史的経緯によって育まれた寺院経営や教団形成・維持の方法などがあり、全ては時の為政者をも巻き込んだ中世寺院社会の幾層にもわたるネットワークで成り立っていた。本書は膨大な寺院資料、とりわけ各時代を生きた僧侶たちの肉声を留める聖教を駆使して、中世仏教と寺院社会の具体相を活写していく。
平家による南都焼討を受けた東大寺を再建する大勧進職となった重源と、鎌倉に新たな政権を樹立した源頼朝の関係を軸に、大事業成満の背景にある「僧俗の思惑」を考察。再興された東大寺が諸宗を修学する「八宗兼学道場」として展開する過程を、戒壇院の円照・凝然師弟の歩みから浮かび上がらせる。
さらに鎌倉幕府の有力者・金沢北条氏を檀越とする律院称名寺でなされた幅広い諸宗兼学のあり様と合わせ、多様な思想や法会を生み出した中世仏教の活力が「兼学」にあることを考究。釼阿・湛睿の足跡から「広範な真言密教の受容」「華厳聖教の撰述」の実相を明らかにし、中世東国の修学環境を構成する寺院ネットワークを明示する。
平安仏教の両巨頭・空海と最澄の交流から訣別までを再考。面授を絶対として伝授される密教の法流について、「東密のなかで最も優越した法流」に位置付けられた醍醐寺三宝院流の師資相承の流れを見ていく。真言宗が「新義」と「古義」に分岐する起点となった醍醐寺報恩院憲深から根来寺中性院頼瑜への授法、細分化した法流を統一して弘法大師への回帰を図ろうとした後宇多法皇と報恩院憲淳の葛藤、三宝院義演の醍醐寺復興事業と豊臣秀吉の援助など、寺院社会を舞台にした歴史ドラマを詳述する。
浄土教から浄土宗を立宗した法然の教説と、門葉による分化に論及。「互いを意識した」親鸞と良忠の教化の違いをふまえ、現在まで続く浄土門教団の形成と発展の道程を辿る。(A5判・428頁・価5720円)
2025/2/10
<本だな> 『喪失、悲嘆、希望 阪神淡路大震災 その先に』
堀内正美 著 月待舎
阪神淡路大震災の発生から30年。本書は市民ボランティアネットワーク「がんばろう‼神戸」を立ち上げ、人と人との復興の輪を繋いできた著者の全活動の記録だ。
俳優で神戸市在住の著者は、発災直後の惨状を「映画の中でしか起こらない、起こってはいけない光景がそこにはあった」と振り返った上で、「激震地において、自分の身を顧みず誰かを助けようとする人々の姿を見」たと回想。様々な支援活動が形成される過程を語っていく。仮設住宅で孤独死が相次いだ時には、緊急連絡用のシルバーホンを高齢者に配って対応。葬儀社や僧侶・牧師らと連携して、仮設住宅での葬儀ボランティアも作った。
行政主導ではなく、現場の声を聞いた仲間たちが自由な発想で助け合いの輪を広げていく。発災の1995年がボランティア元年と言われることに納得させられる一方で、種々のトラブルなども赤裸々に綴る。人間は善意だけの塊ではないのだと思い知らされる。
震災モニュメントのマップを制作し、誰もが参加できる交流ウォークを実施。「ここで僕は、『個人の死』が『みんなの死』になることで、悲しみを乗り越えられることがあるのだと確信した」。こうした想いが、「阪神淡路大震災1・17希望の灯り」の建立へと結実していく。
あまりにも多くの喪失と悲嘆をもたらす大災害。その先に希望はあるのか。本書はその問いに懸命に答えようとする現代の『方丈記』にも思える。「この震災大国日本において、本書はこれから起こる災害の備えとしての役割も果たすだろう」(四六判・312頁・価1980円)
2025/1/27
<本だな>『超少子・超高齢社会の日本が未来を開く』
長谷川敏彦 鎌田東二 著 ホーム社
急速に進む少子高齢化のなかで、医療や介護、福祉、そして心のケアは、喫緊の課題といえる。それは、これからの日本社会をどのように構想、構築していくかという、きわめて大きなテーマにつながっている。
本書は、医療、宗教というフィールドで専門の枠にとらわれず、縦横に研究と実践を続けてきた長谷川、鎌田両氏の壮大かつ貴重な対談である。
長谷川氏はアメリカで医師としての修業を積み、帰国後は医療行政にも携わり、数々の政策立案や提言を行ってきた。現在は未来医療研究機構の代表理事を務める。
一方の鎌田氏は、神道を軸に日本の宗教文化を独自の視点から研究してきた。自然保護などの活動やスピリチュアルケアの問題にも取り組みながら〈神道ソングライター〉〈ガン遊詩人〉として歌い、吟じている。
対談は、それぞれの人生の歩みを振り返りつつ進んでいく。両氏に共通するのは、今は時代の大転換期であり、あらゆる面で従来の社会システムスは立ち行かなくなっているという認識だ。
医療、介護、福祉といった分野でいえば、日本は、近い将来〈超少子超高齢〉の本格的な〈多死社会〉となる。そこで求められるのは、病気を治し、寿命を延ばすだけでなく、日常的な動作の回復など〈生活の質〉を重視する総合的な社会システムづくりだという。(続きは紙面でご覧ください)