『週刊佛教タイムス』2024年10月17・24日合併号の「秋の読書特集」では、18冊の仏教書・宗教や信仰をテーマにした書籍をご紹介しました
『カルトと対決する国』(同時代社)広岡裕児 著
『評伝・小林正盛』(法藏館)星野英紀 著
『神が喜ぶ音楽 大本における音楽の役割』(国書刊行会)チャールズ・ロウ 著
『ビジュアル再現 平安京』(吉川弘文館)梶川敏夫 著
『平和構築の原動力としての宗教』(社会評論社)アジア宗教平和学会 編
『からだで悟る!断食僧が教える「悩まない心身」のつくり方』(佼成出版社)野口法蔵 著
『法眼 唐代禅宗の変容と終焉』(臨川書店)土屋太祐 著
『まんが!日蓮の手紙』(扶桑社)植木雅俊+NHK「100分de名著」制作班 監修 佐々木昭后 まんが
『講義 宗教の「戦争」論 不殺生と殺人肯定の論理』(山川出版社)鈴木董 編
『アーナンダガルバ作「一切金剛出現」の研究』(ノンブル社)髙橋尚夫 著
『法然仏教成立論・私考』(平楽寺書店)藤本淨彦 著
『勤式作法の変遷(昭和~令和)』(永田文昌堂)堤楽祐 著
『日本を変えたすごい僧侶図鑑』(産業編集センター)蓑輪顕量 編著 東京大学仏教青年会 著
『もっと調べる技術』(皓星社)小林昌樹 著
『ひとりぼっちのルミちゃん』(日本機関紙出版センター)久保雅子 著
『ははこぐさ』(日本機関紙出版センター)吉本トミエほか 著
『ヒロシマねこ』(日本機関紙出版センター)つるおかたか 著
『英国人尼僧、ティク・ナット・ハンと歩む』(春秋社)シスター・アナベル・レイティ 著 池田久代 訳
秋の読書特集2024の書評の一部をご紹介
『カルトと対決する国』(同時代社)広岡裕児 著
著者に聞く フランスの統一教会問題 人権基準が奏功
旧統一教会(世界平和統一家庭連合)に対して、文科省が宗教法人法に基づく解散命令請求を東京地裁に提出してから10月13日で1年。裁判はいまだ継続中だ。
統一教会の宣教活動は1970年代のフランスでも社会問題となった。しかし試行錯誤を重ねながらの対策が功を奏し、統一教会を含むカルト問題に適切に対応することができるようになった。その基準となったのが「人権」である。
フランス在住のジャーナリスト、広岡氏は1996年に公刊された日本の衆議院にあたる国民議会のセクト調査委員会報告にまず着目(「セクト」とは英語の「カルト」のこと)。「セクト」は、新宗教・奇抜な宗教・少数宗教を意味する言葉だった。だが、現在問題になっているのは宗教ではなく「心理的不安定化の策略を通じて信者から無条件の忠誠、批判的思考の減少、一般に受け入れられている基準(倫理的、科学的、市民的、教育的)との断絶を獲得することを目指し、個人の自由、健康、教育、民主的な制度に対する危険をもたらすグループ」だとした。
本書によるとその定義論も賑やかだったが、いまは落ち着いている。「2001年の『基本的な人権と自由を侵害するセクト的運動の予防と取締強化のための法案』(通称、セクト規制法、アブー・ピカール法)で、宗教社会学者らの『新・奇・少』の宗教を示す『セクト』とは別の、宗教とは関係のないセクト的運動を法律上で定義した。すなわち『その活動に参加する人の心理的または肉体的服従を創造したり利用したりすることを目的または効果とする』団体である、としました」
「新・奇・少の宗教」とは異なるセクトの定義とは、心理的肉体的服従状態にする団体のことだ。怪しい医療マルチ商法などもこの範疇に入る。「宗教問題としてのセクトは主に教義を論じるが、人権問題のセクトは行為・行動を論じる。何を信じているかではなく、何をしているかが問題だ」と広岡氏の弁は明解だ。
本書では、「キリスト教の欧州」から「人権の欧州」に変わったと解説したドイツ人の言葉を紹介した上で、次のように指摘する。「いまや社会の基盤が宗教ではなく、人権になった。かつて宗教の教義に照らして判断したように、人権を侵害するかどうかが、判断の基準になったのである」
人権を基準にした対策によって、フランスではセクトとされた団体の問題行動は激減したという。広岡氏は言う。「カルト対策は、宗教を攻撃するものではなく、宗教を護るもの」。フランスの取り組みから日本は何を学ぶか。宗教界の課題でもある。(四六判・226頁・価1870円)
『からだで悟る!断食僧が教える「悩まない心身」のつくり方』(佼成出版社)野口法蔵 著
「『悩まない脳をつくるにはどうしたらよいか』と考えたのだが、からだを整えさえすればよいのではないかというシンプルな答えに行き着いた」。30年超に及ぶ「坐禅断食」や五体投地、滝行などの修行経験から、行の実践方法やよりよく生きる極意を伝える。
著者が実践する五体投地、滝行、呼吸法・坐禅、断食の具体的なやり方を紹介。修行の経緯や行によりどのような変化が身心にあったか、分かりやすく記されている。
著者が実践する行の中でも、インド・チベット式の五体投地は、仏教における帰依、懺悔を表し礼拝行でもあるが、同時に「究極の瞑想法」と紹介し、祈りが深くなり信仰心が育つという。試しに実践すると、10回行っただけでも不思議と雑念が消え達成感があった。
本書では、行の実践から宗教的体験や境地も語られるが、現代の考え方でも行の効能を考察。行ずることで起こるからだの変化と腸などの臓器を働かせる神経作用の関係にも着目している。
著者は臨済宗妙心寺派で得度した禅僧であるが、インド・ラダックのチベット寺院やスリランカでのヴィパサナー瞑想の修行を経ており、その類まれな修行記録としても興味深いものにもなっている。(四六判・208頁・価1760円)
『神が喜ぶ音楽 大本における音楽の役割』(国書刊行会) チャールズ・ロウ 著
大本の祭典に行くと、八雲琴という二絃琴の壮麗な音に導かれ祭員が入場し、儀式の中では讃美歌が歌われるのが印象深い。音楽と儀式が密接不可分となっている点において注目すべき教団だと言える。本書は大本に長く関わってきた英国人の音楽学者によるロンドン大学博士論文を元にしたものである。明治以後の日本の新宗教運動において、音楽はそれぞれの教団で大きな要素ではあったが、それが本格的に研究された事例としてきわめて希少。
八雲琴自体は大本の立教開宗以前より存在しており、1820年に中山琴主という人が考案したとされる。中山の門流はいくつかに分かれるが、その後継者の一人である田中緒琴(沢二)が大本における八雲琴演奏に大きな影響を持つ。田中は1919年に大本を訪れ、「八雲琴が神様のお喜びになるお琴である」ことがわかったとし八雲琴を習得。1924年には綾部に移住し後の三大教主出口直日らに八雲琴を教えた。この田中の移住後に八雲琴が祭典に積極的に取り入れられていく。直日は八雲琴の音色を、やわらかさや暖かみはないけれどもきびしい澄みきった音色と評する。弾圧時代を除き100年にわたって大本がこの音色を大切にしている理由が理解できる。
大本は能や合唱なども巧みに宗教行事に取り入れ、「歌祭」も重要な行事であるが、こうした音楽重視は教祖である出口王仁三郎の芸術への深い関心に基づいていた(自ら弁財天に扮する82頁の写真は象徴的)。1932年には大本の青年組織である昭和青年会にオーケストラ、ブラスバンド、ハーモニカなど6部門でなる音楽部を設立、レコードも録音された。昭和初期にしては非常にモダンな活動だが、王仁三郎一流のメディア戦略の一環としても注目できるだろう。そうした近代的な音楽だけでなく、音頭のような土着的な音楽も、現在に至るまで大本の大きな音楽要素である。ちなみに王仁三郎と対照的に開祖の出口なおは、貧苦の中に生きたためか音楽に関心を持てた余裕のある人生ではなく、王仁三郎の芸術愛と多少の衝突もあったようだ。
こうした大本の音楽活動が立正佼成会など他の宗教も刺激したかもしれないと指摘されている。大本における音楽精神を深堀りするだけでなく、宗教全般における音楽の重要性を再認識し、布教伝道に応用できる可能性も秘めた本である。(四六判・288頁・価3520円)